二の丸御殿の建物はどのようなものだったのか。高槻城の絵図で2つ「輪郭」が記されているものがあります。さらに、どのような建物かを絵で描いたものもわずかにあります。それによると東西に2棟、南北に3棟があったようです。


◆以下は前回12月26日の投稿です。
高槻城ネタです。お殿様が住んでいたと思われる二の丸御殿について本当に情報が少ないのですが、周辺の情報をもとにどのような建物だったのか、お正月に向けて何回かシリーズで投稿したいと思います。まずその1は高槻城は明治維新のあとにどのようなことが起こったのか、他の近くのお城も同じだったのか、ということを投稿します。
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明治5年に廃城令が出たんですが、高槻城は明治5年に当時の新政府が存続や廃止するかの調査されたあと、明治7年に建物がなくなったとされています。石垣はJRの鉄道工事などに明治7年から鉄道完成の明治9年の間に使われたようですので、石材が明治7年に搬出されるということは明治5年から7年の間に城内の建物はなくなっているようですがその間、その建物に払い下げがあったのかなど、いっさいの情報がないみたい。本行寺の門、下田部町に残っている高札場のある民家の蔵などが高槻城から移築された伝えられる遺構のようですが、お殿様の住んでいた御殿はどうなったのかわかりません。明治42年に陸軍工兵隊が来てから二の丸の整地がされて建物の基礎などもなくなってしまいました。1昨年二の丸御殿の発掘調査のときには二の丸南部に蔵の基礎や井戸(後年)のあとが出てきたようですが、二の丸の北側の不明門の発掘のお堀にも御殿の建物の残材はなかったようです。とても謎です。

◆高槻城のほかのお城はどのように廃城の過程をたどったのか 高槻城はその参考にならないでしょうか。
今回は近くのお城の歴史を調べました。

<高槻城>
明治5年 新政府調査(5年の調査図にはまだ天守閣、御殿の図がある)
 その図には御殿のところに元庁舎などと書かれているため明治5年にはすでに転用されたと思われる役所の役目は終わっていたようです。その時点では現在のしろあと歴史館の東側の建物が役所になっていたみたい。
明治7年 高槻城解体(推測)されて石垣が線路の敷設に転用
払い下げなどの記録一切なし

<亀岡城>
廃藩時5万石で高槻より少し大きかったですが、
明治6年一部の民間払い下げ
明治10年に天守閣が解体
明治11年さらに一部(残り?)の払い下げ
明治15年新御殿の玄関一部が市内に移築
   新御殿とは幕末に建て替えられた御殿のようです。(間取り図あり)
   その門は亀岡の2つとなりの駅の近くにある小学校の門になっています。
   亀岡の場合は他にも払い下げで移築されている遺構があるようですね。
明治30年代 鉄道建設のため石垣が転用 高槻と同じですね

<岸和田城>
江戸時代6万石
明治4年 
  8月藩主 東京に引っ越し(岡部家は戊辰戦争で新政府軍に)
  城内の櫓解体・堀の水抜き 当時すでに天守閣はなかったため解体は順次だったみたい
  すでに二の丸御殿は雨漏りがひどく靴で入らなければならなかった
  その後5年 岸和田県から堺県に 御殿の一部が解体 
明治6年 城内の御殿は段階を経て解体(間取り図あり)
  払い下げの記録なし しかしわかっているものとして
  月見亭(櫓)が阪南移築 (大正)その後平成9年に解体
  能楽堂の能舞台に移築 
現在は建物の復興がされているものの当時の建物はない
岸和田城もなぜ解体を急いだのか理由は謎のようです。

<明石城>
天守閣は当時なく廃城後、3つ残っていた櫓の1つが学校建設の資材となる 2つが現存。

<三重県の松坂城>
紀州藩の支城でしたが明治6年に城内の門などの払い下げ 米櫓、近くの寺に門が残る
二の丸御殿は残されたが明治11年に焼失(写真、間取り図あり)

ということで、亀岡城は廃城後も急を要していなかったため?お城の解体が明治10年だったみたいですが、払い下げが明治6年くらいだったとすると高槻城は、一部は移築されたものの、御殿や天守閣は、明治7年の鉄道建設が解体の契機になったのではないでしょうか(私見です) 。ほか地区では明治20年代に解体されたお城もあったようです。岸和田城は逆に解体が早かったみたいですね。岸和田市の城も高槻城と同じく昔の写真がないようです。亀岡城(10年解体)には写真があるので、この間数年で記録があったかなかったかが別れていますね。三重県の松坂城は明治5年で写真が10枚近くも残っています。これは地元出身の世古格太郎というひとが新政府の調査で写真を愛知県から京都付近まで撮ったのでたまたまか残っているみたいです。今後、ほかのお城の御殿の間取り図などを元に高槻城の二の丸御殿を推測してみたいと思います。

具体的には下記について投稿したいと思います。
◆二の丸御殿の建物はどのようなものだったのか。高槻城の絵図で2つ「輪郭」が記されているものがあります。さらに、どのような建物かを絵で描いたものもわずかにあります。それによると東西に2棟、南北に3棟があったようです。しかしその5つの建物を、別の絵図の「輪郭」に当てはめようとするとかなり無理があるようです。そこで、今後さらに日本に現存する4つの御殿の情報の他、亀岡城の御殿、岸和田城の御殿、和歌山城の御殿の間取り図、三重県のお城の御殿(松坂城、伊賀上野城)などの御殿の間取り図・古写真などを参考に推察してみたいと思います。。。。

参考 過去の投稿
▶高槻城築城400年 特設ページ
▶出丸町 旧高槻城の六口の富田口から入ったところにある謎の道標 
▶高槻城 城内に現在も残っている通路は? 出丸の北門付近 現在のようすは?

▶高槻城跡 市民会館工事に伴う二の丸御殿付近の発掘調査が2019年6月いっぱいで終わるみたい

▶【旧高槻城の外堀道】 ウオーキングしてみた!そのルートは?いったい何分かかるの?
▶高槻城跡 二の丸中央部の発掘調査の報告 高山右近時代の堀があったみたい 2019年
▶高槻城二の丸発掘調査報告を見てきた 高山右近の前の時代のお堀が発見されたみたい 前回報告
▶高槻城二の丸発掘調査 1500年代後半高山右近の前の時代の堀が発掘されたみたい 2日現地報告があるよう

▶高槻城築城400年 大河ドラマの舞台でもある浜松城と比較してみた
▶【築城400年】高槻城に天守閣があったらどんなの?明石城編

▶【築城400年】高槻城に石垣があったらどんなの?明石城編

▶旧日本陸軍 工兵第4大隊の歴史を少し調べてみた その2

▶旧日本陸軍 工兵第4大隊の歴史を少し調べてみた その1
▶旧陸軍 工兵第4大隊の正門をみたことある?

▶レンガトンネル第2弾の土台も高槻城の石垣石の痕跡が!?

▶築城400年 高槻城の外堀道とは? 予告編

▶築城400年 高槻藩の藩校はどこにあったの?

▶【市民会館工事】高槻城の発掘現場がふたたび予想の展開になってきた!?

▶【市民会館工事】 高槻城の発掘調査は予想と違う展開になってた、、

▶【市民会館工事】高槻城の発掘調査がもう1箇所ある?

▶【市民会館工事】 更地の南西部で発掘調査がなされている?

▶【高槻城二の丸南部】市民会館の工事が始まった!

▶高槻城 二の丸発掘調査跡はどうなってる?

▶高槻城不明門 開かずの門が開いた!

  ↑二の丸跡発掘調査です
▶高槻城 お堀の発掘調査報告がされるみたい 続報
▶高槻城のお堀跡?を発掘調査しているみたい

  ↑新聞より先に記載
▶高槻城の本物の石垣石を見てきた
▶現存する高槻城の隅櫓と下田部高札場を見てきた

▶高槻城築城400年 記念講演第1回を聴いてきた


<関連記事>
▶続日本100名城「芥川山城」に大手門があった!
▶西国街道】高槻城下京口への入口付近はどんな感じなの?
▶芥川氏が築いたとされる芥川城跡