いよいよ明日は終戦から75年になります。高槻に現在お住まいの方は戦後住まわれたかたが多いと思います。今年は特に故郷で戦争のときの話を聞くこともできないと思います。今年の平和展は規模を縮小されて開催され、展示は市役所内の通路で16日まで展示されているようです。
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全国いろいろなかたから終戦の花をテーマにした記憶を展示されています
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また市内の中学校地域での平和を願った折り鶴のほか、平和の木メッセージもありました。
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あと以下は昨年、一昨年と同じですが昔の戦争中当時の高槻の多くの写真や大阪府・高槻市内の被害などの記載もありますのでご参考までに参照をお願いします。

◆以下は昨年8月14日の投稿です。
子どもたちと考える「戦争と平和」展 in高槻・島本 2019が昨日13日まで3日間開催されていました。
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今回5回目のようです。沖縄戦の記録を中心に、また戦争の経過で語られるとがなかった情報が多くありました。その中で併設されて戦時中の高槻・島本のようすが写真展示があったので許可をいただき、その概要および全体の展示を少し投稿したいと思います。

◆戦争と高槻・島本町 当時のようす
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戦時中の高槻の写真です 左端は運動会でバケツリレーの競争で訓練を兼ねていたようすや
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模型飛行機大会(左) 昭和20年の疎開児童のようす(右)
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芥川の鉄筋なしの橋(左) 昭和6年秩父宮が工兵隊に入隊した時に迎える在郷軍人(右)
その他、市内を歩くの工兵隊軍人の姿、工兵隊淀川での架橋訓練の時の写真もありました
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高槻小学校のプール建設(左)この時工兵隊の方も作業されたと聞いたことがあります
毒ガス弾落下時の演習(右)
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スコップを担いだ小学生(左) 出征時の神社参拝(右) 昔島本町の歴史民俗資料館が青年の家の一部だった頃、その旧麗天館の中の柱に出征の方々の写真があったのを思い出します。

◆高槻の敗戦までの15年の年表
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右の列が高槻で起こったできごとです。左が日本全体の戦争への動き。
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◆高槻の被弾のあった場所
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実は多くの場所で被弾(黄色)したのですね。

◆高槻にあった軍事施設
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高槻にも多くの軍事施設があったようです。
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昨年も記載した高槻地下倉庫(タチソ)の写真です。
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敗戦直後の内部と搬入されていた設備
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現在のトンネル入口 この秋に見学会があるようです。
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◆戦時中の島本町
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島本町の町役場付近には射撃場があったようです。訓練しているのは当時の高槻町長(手前)。さらには戦時中も動いていた水無瀬川沿い、淀川下流改修のため土砂を運ぶためのトロッコ列車もあったようです。高槻の芥川トロッコ列車は戦時中は中断していたと思われるので重要度が少し違っていたのかもしれません。

◆韓国との関係の歴史
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昭和20年まで、朝鮮に対して35年何があったのかを知らないといまのもめている状況は理解できないように思いました。またここを足がかりに中国方面に何をしたのか、、あまりにも知らなさすぎました。。

◆沖縄の戦争の経過
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とにかく沖縄戦の歴史は悲しすぎます。しかし冷静にどのよう経過したのか再度勉強する必要があるなあと感じました。。

◆戦争の遺品について
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家族への遺書や、当時の召集令状(赤紙)もあります この他沖縄の遺品は表のほうに展示されていました。

◆戦争を正当化するプロパガンダ
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デザイン的にはきれいな絵柄ですがいずれも戦争を正当化する(プロパガンダ)のポスターです

◆こどもピースコーナー
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◆大阪市 空襲で焼けた場所
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ノダフジのあった福島区は焼けましたが、一部は残ったこと、松屋町の近くの空堀商店街付近も残ったこと、四天王寺は室戸台風で倒壊し再建した五重の塔がわずか数年で焼けてしまったこと、大阪城一体が残ったこと(でも軍隊の拠点だった大阪城に移築した和歌山城の御殿、櫓1つは焼けたはず)がわかります。

◆大陸で性暴力にあった女性、また戦争に巻き込まれたこどもさんなどのパネル展示
この他、パネルの写真はないですが中国に拡大する日本軍が現地の方に行った行為、被害女性の話がパネル展示されていました。

昨年の投稿
▶【高槻の歴史】空襲と地下倉庫の話 2018年

◆参考までに以下昨年の投稿
今高槻でお住まいのかたで敗戦前の高槻のようすを知らない方が大半かもしれません、、
敗戦直前に高槻で起こっていたことを少し調べたので登録させてください、、

高槻の空襲は
1945年になってから6回あったみたいです
3月19日 原バス回転場付近 小型爆弾
6月7日  真上(緑ヶ丘2丁目)付近
6月15日 芝生・西冠付近 焼夷弾
7月9日  三島江三箇牧(三島鴨神社)銃撃
7月28日 野見町 銃撃 高槻駅 爆弾
7月30日 五領村上牧国道 富田駅ホーム 銃撃

高槻の地下倉庫(タチソ)とは何?北部にあるタチソ地下倉庫ですね
全国に200箇所くらい造ろうとしていたみたい、吹田丘陵、茨木の丘陵にもあったみたいですね
当初は陸軍の貯蔵施設として工事をはじめたけれど、途中で川崎航空の
工場になったみたい、3500人もの方が突貫で1944年11月から造り始め完成直前で敗戦になりました、相当急いで作った感があります、、
高槻は戦中は疎開先として、戦後は大阪からの罹災者を多く受け入れたみたいです、、
(昭和21年、高槻の人口52289人敗戦直後の罹災者3776人)
(総務省資料、高槻市史より引用)
予算ですが当時の市の予算(歳入)は、8640万円なのに一方で歳出は3930万円すごい緊縮だったみたい。財政の詳しいところはまたどこかで、(高槻市史より引用)