すいませんが過去の投稿を引用します。高槻の戦時中の話はあまり知られていません。
終戦表紙
多くの方が、その後高槻に来られているから、という理由もあるようなんです。
来年は高槻市政80周年ですが、市政施行は昭和18年、終戦78年です。

今年は終戦後77年。戦争のまっただなかに市になり、来年市政80周年と節目は大切なんですが、今後がもっと大切と思います。といいましても、昭和18年の時代を振り返るのもよいのでは?と感じた次第です、、もうそろそろ16日になりますが、、下記の場所は終戦時、高槻市でない場所もありますがご了承をお願いします

今高槻でお住まいのかたで敗戦前の高槻のようすを知らない方が大半かもしれません、、終戦直前に高槻で起こっていたことを少し調べたので登録させてください、、

高槻の空襲はあったのか?1945年になってから6回あったみたいです
3月19日 原バス回転場付近 小型爆弾
6月7日  真上(緑ヶ丘2丁目)付近
6月15日 芝生・西冠付近 焼夷弾
7月9日  三島江三箇牧(三島鴨神社)銃撃
7月28日 野見町 銃撃 高槻駅 爆弾
7月30日 五領村上牧国道 富田駅ホーム 銃撃

高槻の地下倉庫(タチソ)とは何?北部にあるタチソ地下倉庫ですね
全国に200箇所くらい造ろうとしていたみたい、吹田丘陵、茨木の丘陵にもあったみたいですね
tachiso
当初は陸軍の貯蔵施設として工事をはじめたけれど、途中で川崎航空の工場になったみたい、3500人もの方が突貫で1944年11月から造り始め、完成直前で敗戦になりました、相当急いで作った感があります、、

高槻は戦中は疎開先として、戦後は大阪からの罹災者を多く受け入れたみたいです、、
(昭和21年、高槻の人口52289人敗戦直後の罹災者3776人)(総務省資料、高槻市史より引用)

予算ですが当時の市の予算(歳入)は8640万円なのに一方で歳出は3930万円すごい緊縮だったみたい
財政の詳しいところはまたどこかで、(高槻市史より引用)

ということで、新しい情報あれば追記していきます。