2017年07月07日 築城400年 高槻城の外堀道とは? 予告編 また高槻城ネタです、、しろあと歴史館にある高槻城古絵図ですこの絵図は写真OKです高槻城の外堀跡はいまは住宅が建っていますが外堀を囲んでいた道はそのまま残っていますね、絵図の黒い部分が城の土塁、灰色がお堀、黄色の外側にぐるっとひと回りしているのが外堀道です図の左側は出丸町、出丸は築城後寛永14年(1637年)に拡張されたので黒い土塁の上に白い土塀の図がありませんね右側の中央の立て札のある付近が八幡町の八幡大神宮ですなかなか一周を紹介する情報がありません、、ならばあるいてみよう一周どのくらいかかるのか?どんな風景なのか?まず古絵図をイメージいただき詳しくは別途登録します! 「歴史」カテゴリの最新記事 タグ :高槻城高槻中部 < 前の記事次の記事 > コメント コメント一覧 (6) 6. 安藤 2017年08月24日 10:02 断層の址を眺めてみると、地震の怖さ、自然の力を実感するのですが、もうひとつの興味は昔の高槻の地層を見ることができます。例えば 月見町の南側、奥天神町の西側、古曾部伊勢寺の南側の断層跡に近ずくと、地表の数m下には砂浜が見えます。たぶんここらあたりは 縄文海進の大阪湾の砂浜であった。ようです。高槻は沖積層であった。ビックリ。 そういえば そんな昔でも無くても、津之江の港や筑紫津神社の由来に心が惹かれるのです。安藤 5. 安藤 2017年08月22日 17:43 明確な活断層は 高槻には 東北東から西南西への2本が調査されてはいますが、実際の地形をながめてみますと「ああここは断層、ここも断層の址らしい」と、の地形があちこちにみられます。それは メインの活断層にほぼ直交して存在しているようにみえます。実際に現場の段差面を見ると地層のズレがみえています。場所は活断層の北側で 且つ高槻市発酵の「ハザードmap」記載の土砂災害危険注意箇所にあたっています。すると、なるほどナーと納得できます。高槻市都市創造部に感謝です 安藤 4. 安藤 2017年08月22日 12:17 ついでに 現在の京都・伏見付近の有馬-高槻断層帯、及び六甲・淡路島断層帯を震源断層として発生したマグニチュード(M) 7.25-7.75程度と推定される内陸地殻内地震(直下型地震)の 慶長大地震で 今城塚古墳も一部が倒壊したとみる。最大ズレ 3m 有馬ー真上活断層は 私たち高槻在住民には記憶にとどめておかねば。高槻の市街地を2本の活断層があります。 西国街道ともう一本が古曾部ー土室 断層線です 安藤 3. 安藤 2017年08月22日 11:09 古地図と 活断層図との共通点は 北摂の唯一の交通手段は西国街道でありました また一方、有馬ー宝塚ー真上ー天王山の活断層が ピッタリと一致しています 街道が断層でずれた後に開通したであろうことが明白です。 今の 西国街道を散策して 古い活断層の址を偲ぶ 安藤 2. 安藤 2017年08月21日 15:16 ついでに 江戸時代の 芥川はちゃんと淀川の流れていた (前出の西宮市所蔵古地図 参考) 芥川が番田水路から安威川・猪名川・神崎川と合流していたのは もう少し前の時代なのでは 要調査検討 安藤 1. 安藤 2017年08月21日 14:51 左側は出丸町、出丸は築城後 寛永14年(1637年)に拡張された --------------------------------------------- 江戸時代初期 慶長10年(1605年)当時の古地図には 今の高槻は芥川郡、茨木は大田郡、豊中は豊嶋郡となっていました。西宮市所蔵歴史資料:1605年9月作成)安藤 コメントフォーム 名前 コメント 評価する リセット リセット 顔 星 投稿する 情報を記憶
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コメント一覧 (6)
有馬ー真上活断層は 私たち高槻在住民には記憶にとどめておかねば。高槻の市街地を2本の活断層があります。 西国街道ともう一本が古曾部ー土室 断層線です 安藤
北摂の唯一の交通手段は西国街道でありました
また一方、有馬ー宝塚ー真上ー天王山の活断層が
ピッタリと一致しています
街道が断層でずれた後に開通したであろうことが明白です。
今の 西国街道を散策して 古い活断層の址を偲ぶ 安藤
(前出の西宮市所蔵古地図 参考)
芥川が番田水路から安威川・猪名川・神崎川と合流していたのは もう少し前の時代なのでは 要調査検討 安藤
寛永14年(1637年)に拡張された
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江戸時代初期 慶長10年(1605年)当時の古地図には 今の高槻は芥川郡、茨木は大田郡、豊中は豊嶋郡となっていました。西宮市所蔵歴史資料:1605年9月作成)安藤