高槻城築城400年の企画として
「高槻城から日本の城を読み解く」の講座が6回予定されて
います。第1回目の講演会を聞いてきました。
少し長文ご容赦願います、。

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第1回は、「お城の発掘調査は高槻城にはじまる」です。
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会場いっぱいです。(150人)、若者がほとんどいない!笑

講師は、しろあと歴史館特別館長の森田さんです。
内容は、昭和51年の高槻城本丸跡の石垣とその基礎の
発掘調査についてです。始めて知ったことばかりですが
とくに印象に残ったポイントを箇条書きにしてみます。

<高槻城概略>
・高槻の城の周りは何もなかった
昭和20年の米軍撮影の航空写真でわかること
高槻の城跡周辺および南側はたんぼばかりだった
当時は富田町のほうが大きい(富田との合併は昭和31年9月)
・高槻城は、芥川山城から城主が移転(1569年)したときに
あったが石垣を持ったお城ではなく、
1573年の高山右近の時代も本格的な石垣はなかった。

徳川の時代になって京都大阪間に砦を作る必要性があった。
→やわらかい地盤にむりくり築城する必要性があった。
築城は1617年(元和三年)徳川の大改修がありそこを
築城の基点としているみたいです
出丸ができたのは1637年ころ。
高槻城の後の城主永井家はそのあと1649年に入城

高槻城の全体の絵図です。上が北で本丸は中央下、今の
槻の木高校のところです。南東に石垣がL字にありますね
この場所が今回のお話の中心です

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・明治7年高槻城は廃城となったが、明治9年の東海道線の
工事のため石垣が搬出された。芥川、如是川は天井川
なのでその高さに線路を敷くと長大な盛り土で線路を
敷いた。芥川の橋脚のほか、ほかの水路はいまトンネル
シリーズで紹介しているレンガトンネルを作る必要がり
その土台などの石材として使われた。
普通は石垣は残るものだが高槻城は明治維新の変化の
犠牲になったといえる。

<発掘のきっかけ>
・昭和49年 槻の木高校(旧島上高校)の前の通りの
下水道工事で石垣石が7つ出てきた。
・昭和50年 体育館の建て替え工事の際地下から石垣石が
出てきた。
・石垣基礎の部分は石が2列になっていた
最初理由がわからなかったがあとでわかってきた
堀に向かって外側は石垣が前にずれてこないようにする
根固め石、内側が石垣石だった。
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<発掘した石垣の土台部分>
・石垣石の下にはなんと黒松の胴木、さらにその下には
胴木を置く梯木(はねぎ)があった
胴木を後で切ったら松やにが出てきた。
黒松は海沿いにしかないため瀬戸内海から持ってきて
前島から運んできたと推測される。
・その梯木(はねぎ)の間には松の葉が大量にしかれて
あった。発見したときにはまだ緑色だったが空気にふれると
すぐ変色してしまった。
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・このような発見があったのは、くしくも推定高さ8mもの
石垣石の大半が持ち去られしたの数段が残されたためそのさらに
下の土木基礎工事の様子がわかった、。

特に印象に残ったのは、
①「むりくり作った石垣」
②「持ち去られた石垣」明治維新の犠牲
この運命がセットになっているように感じました、、。

今後の講演会も150人のようですが超えたら抽選のようです
第2回5月28日
 お城の石垣を支えた梯子胴木組・信長の二条城から高槻城へ
第3回6月25日
 お城のほろを堅固にした枠工法護岸施設 大阪城・狭山池・高槻城
第4回7月23日
 石垣から見た高槻城の謎
第5回8月27日
 お城の瓦研究と高槻城・信長の瓦・秀吉の瓦
第6回9月24日
 高槻城への思い 調査の思い出と築城400年の評価

さらに、話が細かく長文になっていきそう、、、