以前少し書きました。
大正6年の「大塚切れ」という
名称で知られる洪水での
堤防の復旧状況と土砂を
トロッコで押す写真が
名称で知られる洪水での
堤防の復旧状況と土砂を
トロッコで押す写真が
よく知られていますね。
高槻の「土汽車」についての
情報を集めていたところ、
情報を集めていたところ、
枚方の淀川資料館にて、
企画展「淀川で働く機関車」で
昭和初年の大塚付近の堤防工事の
状況を初めて知りました。
企画展「淀川で働く機関車」で
昭和初年の大塚付近の堤防工事の
状況を初めて知りました。
昭和初年は機関車で
土を運んでいたようです。
土を運んでいたようです。
説明して頂いた
淀川河川事務所OBの方も
淀川河川事務所OBの方も
初めて知ったそうです。
大正6年の洪水を
きっかけにした堤防工事の
土を運ぶ「土汽車」は
三島江方面だけでなく、
大塚の方まで来ていたようですね。
きっかけにした堤防工事の
土を運ぶ「土汽車」は
三島江方面だけでなく、
大塚の方まで来ていたようですね。
そうなると、
初代枚方大橋の道路との交差点は
初代枚方大橋の道路との交差点は
どうなっていたのか??
なんと、踏み切りになっていました。
自動車が1台と自転車が2台写っています。
こんなに交通量少なかったのか、、、
こんなに交通量少なかったのか、、、
▶おまけ
同時期に枚方側堤防も天の川沿いで別子山から機関車で
淀川南側堤防に土を運んでいたそう。
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