芥川の土汽車の謎 その6(郡家本町の付近のようす 2019年8月)を追記して投稿します。
このシリーズは、その7まで記載しています。



その6の謎を少し調べていたんですが、前回この先二中方面が丘陵になって、さらに名神高速の方にいくのですが、二中までどのようなルートを通っていたのでしょうか?ちょうどここの付近を歩く機会があり、地域のご長老にお話をお聞きすると、やはり線路は芥川の西側の際が細い道でそこを通っていたんではないかということでした。
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やはりこのルートを通っていたのでしょうか。
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土砂の採取の場所は二中、名神高速から南平台1丁目方面だったので、この右手をのぼっていたんではないかと推測しますが、名神高速があるのでもっと斜めにカーブしていたのかもしれません。
今後、もう少し昔の写真や、残されてる土汽車の砕石場の写真などをもとに追記していきたいと思います。


◆芥川の土汽車の謎 その6を投稿します。(2019年8月)
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芥川のトロッコ列車の芥川に2つあった鉄橋の郡家本町付近、工兵隊の演習場だった旧採石場へはどのようなルートだったのでしょうか?
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郡家本町の朝市のお店に行った時に少しお話を聞きました。この朝市は火、木、土に開いているようです。当日も安くて新鮮な野菜がたくさん。ここで昔の線路の話を少しだけお聞きしました。鉄橋を渡ったトロッコ列車は砕石場であった現在の二中の奥に向けて、芥川沿いを通っていたようです。
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このあと推定ルートを赤い線で描いてみます。


▶【芥川の土汽車の謎】 その1 芥川の郡家本町から西真上町への鉄橋の橋脚は何本あったのか? 


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少し二中に向かって振り返るとルートはこんな感じ。芥川から鉄橋を通るといったんカーブが必要です。しかし郡家本町はこの付近、一段高いため川沿いのルートを進んだと考えられます。
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ここから二中に向けては西側は段差があって、さらに当時はこの前の川沿いの道はありませんでしたので、
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芥川沿いに除々に丘陵沿い上昇していったと思われます。
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このルートを戦後すぐの航空写真(国土地理院の写真参照)とGooglemapと比較してみます。赤いところが今回の写真を撮ったところ。昔の写真も線路のルートはわかりにくいのですが、川沿いを通って今の二中のバス停付近から採石場へ入っていったと思われます。今後も土汽車に関してわかったことを投稿したいと思います。

過去の投稿 よかったらみてください!
▶【芥川の土汽車の謎】 その5 土汽車の終着点はどのへんだったのか いまはどうなってる?
▶【芥川の土汽車の謎】 その4 古い地図や航空写真に汽車のルートは見つかるのか?
▶【芥川の土汽車の謎】 その3 芝生町付近はどのように通っていたのか?

▶【芥川の土汽車の謎】 その2 芥川の鉄橋橋脚跡からJR東海道線までどのようなルートを通っていたのか?

▶【芥川の土汽車の謎】 その1 芥川の郡家本町から西真上町への鉄橋の橋脚は何本あったのか? 

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