芥川の土汽車の謎 その4です。いままで3回投稿した内容を見て、するどい皆さんは気づいたはず。そんなん戦中戦後の地図や、戦後の米軍の航空写真みたら土汽車のルートくらいわかるんちゃう?おっしゃるとおりです。でも簡単でなかったため今回の投稿になります、、
◆歴史のおさらい
芥川の土汽車は昭和13年の水害を契機に計画されたみたいですね。大正6年の大塚切れなどがきっかけかと思っていました。もちろんその間も堤防工事はあったみたいです
大蔵司山(南平台1丁目、二中付近)からの土砂の運び出しについては陸軍工兵隊の反対にあって実際は昭和15年度から運んだみたいです(土砂がなくなったら訓練にならんじゃないか、、 淀川資料館資料から)
その後戦争で昭和19年11月に中断、その後復活したのは25年8月から、28年3月まで20トン機関車で唐崎・三島江まで運んだみたい25年の前に大塚のほうはガソリン機関車で堤防工事していたみたいです(神安水利史から)
◆国土地理院の情報は?
国土地理院のサイトを見ると一応地図と航空写真の閲覧がネットでできますが、精細度がいまいち。写真レベルとなると国土地理院までいかないと閲覧できません。では実際に行ってみようと、国土地理院大阪支所に行ってきました、、

場所は谷町4丁目、阪急高槻市駅から特急、淡路で天下茶屋行きに乗り換え、さらに堺筋本町で中央線に乗り換えます。電車賃は510円、でも時間は乗り換えもあって約40分くらい。

でも降りたら合同庁舎4号館はすぐ。その10階にあります。入り口はけっこうものものしい感じ。行き先を記載してセキュリティのカードを借ります。なんかどこかの会社にいくみたい、、

事務所は10名くらいの方がおられて閲覧ルームは居室の一角にあって自分でパソコンを操作するみたい
自宅できることと違うのは、地図と写真の精細度が最高画質のボタンがついています
今回わかったこと、わからなかったことがいくつかあるのですがランダムに記載します
◆わかったこと わからなかったこと
・昭和23年の航空写真の高精細画像を見ると、三島江の堤防に土を入れるトロッコが30両くらい映っています。2枚の写真で数が違うので使っていた感じ。三島江付近の小学校手前で堤防に工事事務所のようなところも、、トロッコは淀川沿いは堤防のてっぺんを通っていたようです。でも機関車らしきものは映っていません。25年から再開するまで機関車はここにはなかった??
・JRや阪急、城西橋のところも線路は橋の下を通っていたようです。しかしその南、前回新川の付近は堤防の上を通っていたと記載しましたが、写真を見た感じそのまま河川敷を通っていたかもしれません。
・さらにその南、現在の芥川大橋付近で横切っていたはずの鉄橋が見えません、、、どうみてもわかりません、、、ひょっとして昭和25年から再開したとのことでしたが昭和23年時点はなかったのか??だから機関車も映っていない??河川敷の両側に何か作業場らしきものが見えますが橋脚がよくわかりません
現在ある段差のある堰は見えますので鉄橋があればわかるはず、、、、、、謎です、、、
あとで気づきましたが今後25-28年の写真がもしあれば詳しく見てみます、、
・昭和25年の地図でも土汽車のルートがわかる記載はありませんでした。さらにそれ以前の付近の地図はないみたいです、、
◆その他
芥川本陣の建物は昭和23年の航空写真に映っているのか?
西国街道に向けて2棟があるのがわかります。でも古絵図では2棟に加えて小さな小屋があるはず。でもわかりません。中庭や裏の建物のようすは似ていますが古絵図と全く同じ感じではありません。。当時も明治からは80年も経っているので建物も変わっていたかもしれません(引き続き調べます)
やはり全体的に現代の航空写真のより精細度がないようで詳細がわかりませんでした、、、
参考
▶【芥川の土汽車の謎】 その3 芝生町付近はどのように通っていたのか?
▶【芥川の土汽車の謎】 その2 芥川の鉄橋橋脚跡からJR東海道線までどのようなルートを通っていたのか?
▶【芥川の土汽車の謎】 その1 芥川の郡家本町から西真上町への鉄橋の橋脚は何本あったのか?

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