芥川の土汽車(どきしゃ)の謎 その3です
最初の歴史は前回投稿を引用しています
芥川の土汽車は昭和13年の水害を
契機に計画されたみたいですね
大正6年の大塚切れなどがきっかけ
かと思っていました
もちろんその間も堤防工事はあった
みたいですが
大蔵司山(南平台1丁目、二中付近)
からの土砂の運び出しについては
陸軍工兵隊の反対にあって実際は
昭和15年度から運んだみたいです
(土砂がなくなったら訓練にならん
じゃないか、、 淀川資料館資料から)
その後戦争で昭和19年11月に中断、
その後復活したのは25年8月から、
28年3月まで20トン機関車で唐崎・
三島江まで運んだみたい
25年の前に大塚のほうはガソリン
機関車で堤防工事していたみたいです
(以上の歴史は神安水利史より)
さて南部にいく芝生町付近は
どのように通っていたのでしょうか、、
昭和23年の航空写真でもこの
南部のルートがよくわかりません
芝生町付近でお聞きしたことと、
昔の2枚の写真の情報をもとに
現在の写真からルートを推測して
みます
今まで北側から見てきましたが
今回は芝生町1丁目芝生大橋の
すぐ北、次郎四郎橋の堤防西側が
起点です

この堤防の西側は途中で1段下がった
ところに小道があります この付近が
土汽車が通っていたと思われます

というのも現地の方で昔の姿をご存知の方も
この道だったとは断定できないとのこと、、
しかしほかの方で当時立ち退いた家も
あるという話もあることから住宅地の
近くを通っていたと思われます

芝生大橋方面を振り返るとこんなかんじ
あと図書館にある昔の高槻市を紹介する
本の中で残っている写真も堤防の
てっぺんではなくて一段下がった
ところに線路があったのでおそらく
このあたりかと、、
次にここでお話をお聞きした方に芥川大橋
(当時はなかったが)付近はどうだったのか
お聞きしたのですが堤防西側から鉄橋を
渡って、新川桜堤の水路の横の
芥川堤防のてっぺんを通っていた
とのこと

この芥川を渡るところの鉄橋の写真は
残っていますが場所がよくわかりません
おそらくこのへんです
写真左側から右に斜めに鉄橋があった
と思われます

ここからはてっぺんを通ってたようです
この先津之江の城西橋は昔から
あったので城西橋付近はどうなって
いたのかは次回調べたいです
昭和28年台風13号により芥川の
このすぐ近くの西側堤防が決壊したのですが
この鉄橋にひっかかった流木などにより流れを
遮ったのも一因のようですね
(地元の方もおっしゃってました)
それを機会に撤去されたのかもしれません
ちょうど最初の歴史の終わりの昭和28年に
合います 土汽車の謎その4はまたご期待を、、
前回の投稿
▶【芥川の土汽車の謎】 その2 芥川の鉄橋橋脚跡からJR東海道線までどのようなルートを通っていたのか?
▶【芥川の土汽車の謎】 その1 芥川の郡家本町から西真上町への鉄橋の橋脚は何本あったのか?
コメント
コメント一覧 (6)
そういう経緯があったんですね
地元に住んでいながら、全然知りませんでした
土汽車の製造国まであるんですか、、
戦争前は国産は少なかったのかもしれませんね
大きいイチョウのあたりにポイント?があった
という情報もありますね そういう観点でも
調べたいです。。。
コニカミノルタあたりと芝生大橋あたり?か