高槻藩主が参勤交代で高槻城から歩いた八丁松原、昔の西国街道の丁字路には何があったのでしょうか!?

現在は陸橋のある西国街道付近。このあたりはいままでいくつか投稿してきました。
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▶高槻八景のひとつ、八丁松原を撮ってきた
現在のこの先の西国街道への丁字路は昔はどのようになっていたのでしょうか?

摂津名所図会を見ますと西国街道には丁字路ではなく、交差点になっていますね

一方、明治21年測量の地図を参照しますと、高槻城の東大手門からの道は八丁松原として西国街道に丁字路につながっていたと思われます。その場所には池があったよう。この陸橋のできる前はここに大きな池があったようです。もし、池の西側を通っていたとすれば北側に古曽部に向けての道があったと思われます。のちに追記しますが今も八丁松原沿いの水路はまっすぐではなくてこの付近で西側に曲がって北上するので、明治21年の西国街道へのまっすぐな道はなかったかもしれません。能因塚の石碑はこの西側にあるので、本線は池の西側だった可能性ありますね。この辺りはまだよくわかりませんが、今後も引き続き調べたいと思います。
以下は前回八丁松原の中央付近を歩いたようすです
◆高槻の八丁松原ですが、現在はどのようになってるのでしょうか?

松原公園となっていて歩道が広く確保されています

この南側国道170号線から高槻城への道は次に記載したいと思います。では現在も残る八丁松原を少し歩いてみます。

石碑の周りはこのようになっていて

予想より広い歩道になってます

車道との間は塀があり、

歩道は静かなかんじです

はっちょうばし??

むかしここには橋があったのでしょうか?南北に水路があるはずで暗渠になっているのかもしれません。

あまり知っている方はおられないのでは?

りっぱな松が続きます

八丁松原の掲示板 高槻藩の一行が高槻城にくるときの絵図が記載されています。
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さらに松のある道を歩きますと

阪急電車の高架が近くなります

近年工事をされていた(現在も一部工事をされていますが)大阪医科薬科大学も見えます

祠が見えてきました

家内安全とあります

縁起とあります 仏教用語なんですね

阪急電車の高架のほうに進みます

阪急電車の高架を

渡ると

ここにも八丁松原の石碑があります


松の並木を進みます 意外と静かな印象。もっと知られてもよいのでは

途中にはベンチや

ちょっとしたスペースもあります

住宅とは段差があります。

上段に記載した川端康成の娘さんが嫁がれたのはこの付近ではないかと推測いたします

JRからくる道との交差点まできました
ここにも石碑があります

この北側は西国街道までもう少しなんですが、JRの線路もありこの先は松の並木はありません。

道路沿いですがかなり塀もあるため落ち着いた印象の場所です。参勤交代から帰ってきた藩主やその家臣の方々はようやく高槻城近くになって安堵されて歩いたのではないかと感じました。
ここから西国街道までの間と、起点の八丁畷交差点から高槻城までの経路は次に記載したいと思います!
◆以下はブログを始めたころに書いた内容です。改修される前のようすです。
高槻八景なるものが存在するらしい。
◆上宮天満宮
◆芥川堤櫻
◆摂津耶馬渓
◆神峰山寺
◆北山本山寺
◆八丁松原
◆淀川
らしい。(摂津峡があって安心した)1931年に「高槻保勝会」 によって選定されたとある。淀川はきっと他の市町村の名勝にも選ばれているはず。。。高槻八景のひとつ、八丁松原 高槻市民は通ったことある方多いと思います。大阪医科大学と阪急高槻駅の横の通りです。

立派な松の並木道が印象的。成長しすぎて横の民家が危なかった。
八丁松原は高槻の城下町への入り口のひとつで「京口」と呼ばれたそう。 (入り口は全部で6つ)
城下町から西国街道まで続いた道だったみたい。

当時はたくさんの人が行き来してたんでしょうね。

今思えば、阪急を越えた所(松原町)の並木道を撮るの忘れてました。八丁松原なのに 。。。
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