高槻城の謎としまして、今回は石垣は誰が造ったのか?天守閣は誰が造ったのか?どのような外観だったのか?についての謎に迫りたいと思います。確かな記録がないため、断定はできないのですが、周辺情報、実際に各地のお城を見て、感じたところをまとめたいと思います。今日は文面だけで記載しますので、今後図などを入れながら更新していきたいと思います。

(しろあと歴史館の模型より引用)
まず、情報としては、高槻城は元和(げんな)四年(1618年)城主土岐定義のときに普請されます。1615年の大坂夏の陣、冬の陣を経て、大坂城を大改修を計画されるのですがその時の城代であった内藤信正が、1617年まで高槻の城主をしています。大坂城の大改修の前に、実は高槻城、尼崎城、明石城がほぼ同時に作られます。この普請(主に石垣積など)に関わったのが藤堂高虎だったのではないかと思われています。
高槻城の建設(1618年)の前には、藤堂高虎は、宇和島城のあと大洲城までの城主を経てさらに今治城を作って、そのあと津城、伊賀上野城を作って城主となっています。その間、居城ではないものの、篠山城、亀山(亀岡)城に関わっていたあと、そのあと普請主が不明な、高槻城、尼崎城、明石城が造られています。そのあと大坂城にとりかかるわけです。
この流れの中で、藤堂高虎のは高槻城の建設にも大きく関わっていたと考えられています。建物の建設は作事というらしいのですが、ここに関わっていたのかは不明ですが、土岐定義は建設の年に城主となったので、おそらく設計図はその前にはあったはず。
下段に高槻城の絵図のお話を記載しましたが、現存する絵図には江戸時代後半の図には3層の天守閣の屋根に唐破風(△でない丸い屋根)、破風(△の部分)の記載がありません。(一部ありますが)簡単なつくりです。
高槻城のあとに作られた尼崎城は、3層櫓の一つを内藤信正が異動し廃城を決めた伏見城(元和5年廃城決定)から持ってきたようです。さらにそのあと作った明石城の5つの3層櫓のひとつ坤櫓も伏見城から持ってきたということなので、こちらは再利用などをして進められたようです。
では、高槻城の3層の天守閣は新作だったのかが気になるのですが、ここから当ブログの私見が入るんですが、藤堂高虎が当時居城としていた「津城」の2つの3層櫓が、破風や唐破風のない建物だったことが分かっています。(現存してませんが、古写真あり)ということは、設計図がすでにあって、それを参考にしていたのではないでしょうか?津城は過去には何度もいっているのですが、そのような観点で見てなかったので櫓の土台の寸法が同じかなど調べたいと思います。
そうなると、津城の3層の櫓は何を参考にしたのか??これも私見なのですが、下段にも少しあります藤堂高虎が最初に城主となり、修築した宇和島城だったのではないかと思います。宇和島城は内部に入ることができ、8月に再度訪れたのですが、投稿していませんでしたので、このお正月に改めて記載したいと思います。
参考文献;高槻城から日本の城を読み解く 高槻市立しろあと歴史館
天下泰平と高槻城 同
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以下は、前回の高槻城の謎の考察です。
◆現存する高槻城の絵図は、どこから描かれたのか考察してみます。

現在の高槻市はこのように街かどは大きく変わっています。
高槻城があった昔はどのような街かどだったのでしょうか。少しわかってきたので街かどの投稿はこれからしていきたいと思いますが、

現在残る絵図は、野見神社摂社の永井神社にある絵馬のほか

こちらは個人蔵の絵図(いずれもしろあと歴史館より引用)
いずれも北東からの鳥観図です。

城内公民館にある絵図です
このほかにも3つあり、永井公帰城絵図のほかがあるようです。いずれも北東から描かれたもの。
では、これらはどこから描かれたのでしょうか?考察してみます。

この方角からでしょうか?(しろあと歴史館の城下の模型より引用)

同じくこの方角からでしょうか?(Google mapから引用)高槻小学校の上空から。
おそらく、現在の高槻小学校付近から見たようすに見えます。
ということは???
▶本町 高槻藩時代の火見櫓のあった町会所につづく水路に残る古い石垣がある件

本町にあった火見櫓からではないかと推測します。(ふるさとの思い出写真集 高槻 国書刊行会 より引用)これは明治6年に、高槻小学校創立時に転用された高槻藩の会所、当時は火見櫓がありました。

場所は、現在のしろあと歴史館の東、第一中学校の校舎の付近(中央下の会所とある場所)のようです。
これはあくまでの推測なんですが、この角度から高い場所から見える唯一の場所はここだったのではないかと推測いたします。現在の高槻市公園墓地とか遠い場所からも考えられますが、詳細が見える場所は火見櫓だったのではないかと思われます。
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