下田部町にある高槻藩時代から残る高札場の情報です。改めてよくみると瓦に永井家の家紋がありました。永井家は二つの家紋があって、鉄線紋、一文字三ッ星の家紋です。 2025年 
20250923高札場 (1)
前回の投稿から改めて観察します
20250923高札場 (2)
永井家は二つの家紋があって、鉄線紋、一文字三ッ星の家紋があるんですが、こちらは一文字三つ星です。
20250923高札場 (4)
ほかにも観察しますが
20250923高札場 (12)
南側の瓦は新しいようですが、同様に家紋があります。
20250923高札場 (8)
この土台も高槻城の藩時代のものでしょうか。
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西国街道には九つの高札場があったようですが藩時代の高札場はここだけ残っているようです。
この家紋のある瓦はめずらしいのではないでしょうか。


以下は前回の投稿です。
◆下田部町にある高槻城からの移築とされる隅櫓と旧大坂道の高札場を久々に投稿します。ブログを始めたころに投稿したんですが、隅櫓が本当に移設されたのかよくわかっていません。廃藩置県後、高槻城は明治6年ころに解体されています。その時の情報はほとんどありません。明治7年10月に官営鉄道建設のために、石垣石が売却されています。おそらく明治6年以降のどこかで石垣石を取る前に建物の売却があったのではないかと推察されます。亀山城(亀岡)も有力な庄屋のお宅などに御殿や長屋門、明石城も小学校建設に櫓を転用されました。
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高槻も有力なお宅にいくつか移築されてるのではないかと思われますが、記録がないようです。今回、この建物が、高槻城から移築されたという前提(当ブログ調査により)で、いったいどこから移築された可能性があるのか探ってみます。

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先日、高槻城に門櫓、櫓がいくつあったのかを調べました。
町間入高槻絵図(仏日寺)1700年代前半 によりますと
三層天守閣 1
二層櫓 3
門(一の門) 7
門櫓(二の門) 7
一層櫓 3(二の丸、本丸)
不明門 3(橋がなかったとされる)
長櫓 1(本丸)
出丸北門 1
の櫓と門があったのですが、一層櫓という3つの櫓がとても気になります。
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実際にその絵図を確認しますと
左:二の丸御殿 現高槻城公園芸術文化劇場南館
右:本丸 槻の木高等学校です。
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とくに本丸の右上と、左下に一層の櫓があります。
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五間三間という矢蔵があったようです。これは形が似ていますが、少し大きいです。
骨格を移築したと想定すると、その同付・・というもうひとつの櫓が二間二間半ということで大きさが似ています。今後新しい情報が出てきたら更新したいですが、当ブログの調査における記事とさせていただきます。


以下は以前ブログ始めたころの投稿です。
◆漢字が難しいですね。
隅櫓→すみやぐら
高札場→こうさつば
です。
下田部町の住宅街をぶらりしてきたんですが、高槻城の隅櫓が現存するって知っていましたでしょうか。高槻城跡は明治7年の廃城以降、東海道線工事(明治9年)で石材等が使用され、建物は全く残っていないと思っていましたが、どうも高槻城には3件の木造の遺構があるようですね。
 
野見神社内の「永井神社」と、本行寺の「門」と下田部町1丁目にある民家に移設されたとされる「隅櫓」です。

▶移設された隅櫓 
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この隅櫓は、高槻で唯一残っている江戸時代の高札場、下田部高札場のすぐ横です。下田部の古い町は本当に昔のままです。

▶下田部高札場 
kousatsuba

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更に、横に古い道しるべがあり、三島江方面(大坂)と高槻・京都方面が記されています。これも高槻城の石垣の転用みたいですね。
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下田部ネタを続けて書きました。本当に歴史の深い町ですね。もう少し深く知りたいですが、あまり情報がありませんねえ。