三島江二丁目の三島鴨神社の境内横にある、高碕達之助翁顕彰館を見学する機会がありました。高碕達之助氏は高槻市名誉市民です。どのようなかたなんでしょうか。

高槻市に最近来られた方は、この方の情報に触れる機会がなかなかありません。

昨年、三島鴨神社の境内横に、高碕達之助翁顕彰館が建設されたんですが、先月の三島鴨神社の秋祭りに解放されていて、運よく見学ができました。明治の高槻の方で有名な方はあまり聞かないんですが、

実業家で、後年に日本のかじ取りをされたすごい方のようです。
1885年柱本に生まれます。
幼少は母親の枚方の村野のほうで育ちます。
茨木旧制中学校、
農商務省水産講習所(現東京海洋大学)、メキシコ万博漁業を経て、
1917年東洋製罐を創立。(32歳)高槻も府道16号沿いに東洋製罐工場がありましたね。
1942年満州重工業開発の第2代総裁に(57歳)。
戦後1947年公職追放、51年解除。
1952年電源開発総裁。佐久間ダムなどを建設。御母衣ダム建設時に荘川桜の移植事業を実施。
この時にはすでに67歳です。
すごいのはそのあとです。
1954年(69歳)鳩山一郎内閣に呼ばれて、経済審議庁長官
1955年(70歳)旧大阪3区衆議員議員へ(寝屋川、高槻が範囲だったよう)
1958年(73歳)岸内閣で通商産業大臣、経済企画庁長官、科学技術超長官を兼務
1964年 死去(79歳)当時親交のあった周恩来からも哀悼の言葉があったようです。
この高碕氏のバイタリティというか、実業家の経験を踏まえたあとに日本のためにしかたなく議員になって日本のための仕事をするという目的が最初にあることに感銘を受けました。総理大臣にも推挙されたようですね(断っておられます)
一方で、高槻市に関連するエピソードとしては、淀川の堤防工事(土汽車で大蔵司から運搬)、淀川新橋建設、高槻駅西口地下カード建設、府道16号線建設(当時は4車線構想を提唱)などに関われていたようです。なかなか高槻でも取り上げられていない印象ですがまた今後も功績を伝えられたと思います。
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