以下の投稿は昨年2023年6月26日の投稿の再送になります。高槻藩の永井家の初代藩主「永井直清公」を皆様に少し知っていただきたく、ときどき今までの関連した投稿と、その親である永井直勝、兄である永井尚政(淀藩)またその時代の関連した投稿もしていきたいと思います。下段の方には永井直清公を祀る「永井神社の例祭」のようすなどもご参考に記載しています。
東寺の五重の塔は有名ですが、実は現在の塔は5代目です。1635年(寛永12年)に焼失後、1641年(寛永18年)に建設を始めて、1644年(寛永21年)に完成したようです。
歴史を調べてみると、その5回目の建設(4回目の再建)には、高槻藩祖永井直清公が関わっていたようです。少し歴史を見てみます。五重の塔は826年創立です。
1633年 永井直清 長岡京にくる
1635年 五重の塔焼失
1639年 東寺塔修補奉
1641年12月 東寺修理奉行就任
1641年 五重の塔 建設開始(5回目の建設)
1644年 五重の塔 完成
1645年7月 東寺修理奉行退任
1649年 永井直清 高槻にくる
徳川家光によって再建とありますが、五重の塔の建設中、永井直清は責任者だったんですね。
でもこのころは、まだ高槻の殿さまではなく、長岡京の勝竜寺城にいました。その約5年後に高槻にくることになります。

では今回、その東寺をお出かけ編という感じで訪れてみました。高槻の多くの方は訪れておられるかもしれません。

171号線を京都に行く際に必ず通る東寺、この交差点を左に曲がって京都市内に入りますが、車が入れる入口はその通り沿いの北側にあります。金堂(国宝)や、五重の塔(国宝)、講堂(重要文化財)のエリアは拝観料があり、入場します。今回は五重の塔をメインに記載します。

国宝と建設時期の表示や

如来像の説明と

心柱の説明

構造の説明図がありました。

真下から見上げます

一階はとてもしっかりとした構造で

上層を見上げると

このような鐘も

西側からみた一階。

縦方向ではこのようなかんじ

落雷の時のための誘導の線が南西の角にありました

境内には大きな瓢箪池という池があって、この位置からの構図がよいですね。
そのほかの周辺の建物を見てみます。
東大門(重要文化財)

東大門がすぐ近くにありました

立派な門です。
講堂(重要文化財)

なかにはたくさんの立体曼荼羅の如来像がおさめられていました。

赤い色をした講堂。

とても立派な建物です。825年着工。835年完成。1491年再建。1598年修理。

金堂と講堂の間から講堂を眺めた姿。

こちらのほうが一時代古い印象です。
金堂(国宝)

1486年焼失。1603年再建の建物のようです

こちらも立派な建物です。

このエリアだけでも圧倒されました。
南大門(重要文化財)

国道171号線(ここでは西国街道)沿いから見えますね。

こちらも立派な門です。
宝蔵

北東の入口近くにあります。池に囲われています。

池にはカルガモ親子がいました。
なお、羅生門(現存しません)の西側には、昔「西寺」がありました。この場所にも参考に行ってみます。
西寺あと

中央が小高い丘になっています。

おそらく、大きな建物はつくられたときの礎石でしょうか。
西寺の跡地
西寺の塔のあと

西寺の塔のあとです。以前は古い民家がありましたが、周辺が更地になっているようです。
西寺の塔の跡地はこの付近
なお、おまけですが

すぐとなりにある洛陽工業高校あとちには、京都市立開建高等学校が作られていました。
◆以下は参考までに前回の高槻藩祖永井直道の歴史と永井神社の投稿です。
野見神社にある永井神社の例祭のようすを紹介します。永井神社の神様は高槻藩祖永井直清です。今年は永井神社創建230年にあたるようです。藩祖である永井直清が高槻城に入城して374年になります。

今年も、永井神社の例祭に参加させていただきました。

4月23日の9時からの例祭です。旧高槻藩の藩主、藩士末裔の方を中心に例祭をされています。

現在は永井神社会の方が中心となって例祭をされているよう。今年は9名の参加でした。

例祭のあと少し懇談があったのですが、昨年も紹介させていたきました、「殿さま」を中心としていろいろなお話をお聞きしました。現状の永井神社会の運営や社殿の補修の課題もあるようです。まずこの永井神社会を盛り上げることが大切と思われます。ということで、
永井神社会より
当永井神社は、旧高槻城に鎮座する野見神社の摂社で、創立は寛政5年(1793年)8月に高槻藩第9代永井直進が、初代藩主永井直清候を御祭神として創建しました。また嘉永元年(1848年)には、11代直輝が初代直清入城200年を記念して、社殿を修復し、合わせて唐門と拝所を建立しました。江戸時代の神社剣突様式をよく表す遺産として高槻市の指定文化財となり市民の憩いの場となっています。永井神社会は篤志により高槻藩解体後に創建されており、例年4月24日の例祭事業ならびに修復事業を中心に神社の護持発展を司ってまいりました。潮流激しき時代に質実剛健の精神を堅持され、また地元高槻の発展のために尽力し見守り続けた永井直清候を崇敬し、御祭神との御神縁をお結びいただけますようご入会の案内、継続のご案内を申し上げます。
永井神社会 会費1000円(年)
特典 永井神社御礼の授与
4月24日の例祭の参列
申し込み JA高槻本店 普通0046095
もしくは野見神社代表まで(072-675-1316)
もし趣旨にご賛同された方は大募集のようです。
このあと、「殿さま」と付近の写真を撮りました。

旧高槻藩の永井家の家紋であるテッセン

なお、「殿さま」は、旧二の丸御殿あと約150年後にできた、高槻城公園芸術文化劇場を眺めておられました。
▶高槻城の二の丸御殿はどのような建物だったのか 御殿を推測してみる その3
ご参考までに永井祭奉納武道大会のようすも投稿します(16日)

今年は一週間前(4月16日)にありました。

ということで、現在はあまり知られていない永井神社の例祭と、永井神社会のご紹介でした。
◆以下は前回の高槻藩祖永井直清の紹介と、永井神社の例祭の案内の投稿です。
江戸時代高槻藩をおさめた永井家の初代のお殿様、永井直清を祀った永井神社の例祭ですが、今年2023年は4月23日(日)9時半にあるようです。近年は永井神社会の方の参列でとても小規模な例祭のようです。ちょうどこの週末になるので、永井直清というお殿様の紹介を兼ねて紹介します。今年の永井祭奉納武道大会はこの前の16日だったようです。

永井直清には、めずらしい馬に乗る肖像画がありますが、
永井神社の神様である、高槻藩の藩祖の永井直清ってどんな人なんでしょうか?とても気になっていました。今回念願の高槻藩永井家の藩祖を祀る永井神社の例祭に参加させていただき、その藩祖の永井直清という殿さまについて少し勉強させていただきました。

4月24日は永井神社の例祭です。高槻城に永井直清と家臣団が入城した日。(高槻藩36000石)慶安3年(1649年)、なんと直清59歳のときです。その後81歳でなくなるまで22年間高槻の城主でした。(2代目は孫直時が藩主)。では高槻に来る前にはどこにいたのでしょうか?1633年に長岡京の勝龍寺城に2万石で約16年過ごしていたようです。勝龍寺城といえば、戦国時代は明智光秀に関係するお城。
▶大河ドラマ 麒麟が来る 本能寺の変のあとはあるの? 明智光秀の本陣 恵解山(いげのやま)古墳と、合戦後に入った勝龍寺城を訪れてみた 高槻からも近い
▶大河ドラマ 麒麟が来る 本能寺の変のあとはあるの? 明智光秀がいた長岡京のあの場所と、豊臣秀吉がいた高槻のこの場所を知っておきたい!
さらに長岡京にいたその前は?出生(1591年生まれ)から少し調べてみます。
1587年生まれの4つ年上の兄、永井尚政(老中)が、親(永井直勝)の死後、下総8万9千石を相続。その後、淀城5万石に。2代藩主のときに宮津に国変えになります。この兄が淀城にいた時には、兄弟で高槻と、対岸の淀をおさめ、交代で参勤交代をしていたときがあるようです。兄(尚政)と同じく、2代将軍秀忠の小姓となって、1614年には大坂夏の陣で手柄を立てたとされます。その後、旗本の書院番と言われる仕事をしています。そして、1633年(43歳)のときに長岡京にやってきます。その後高槻に来るまでには、京都所司代代理、大阪城代代理、大山崎の離宮八幡宮、京都の東寺五重の塔の建設の奉行(幹部)の仕事もしているようです。私見ですがこのころが一番忙しかったのでは?と思いますね。ある意味現代で言うと定年前に高槻にやってきたという感じです。でもそれだけ経験ある人物にあえて高槻に配置して任せたという考えもあるようですね。(それまで1649年までの高槻の城主は短い年月で変わっていました)その後、高槻の永井家は国替えなく13代まで続きました。
高槻に来て、八丁松原や、芥川の下を掘削し番田水路を整備したのも永井直清です。現在上宮天満宮の参道途中にある鳥居も永井直清が奉納しています。
では、この永井直清が神様になる(永井神社建立)のはいつ頃だったのでしょうか?建立は寛政5年8月(1793年)。直清の高槻入城144年です。9代藩主直進が創立しました。当時建立時8月24日に、お城が開場されて、市民というのか?が参拝できたようです。
永井神社で例祭が始まりました。今回永井神社会の方として、殿様の姿の家臣のご代表(以下殿さまと記載します)のほか、約6名の方が参加されました。その他高槻居合道のご代表と、その居合道の方々です。

例祭の間、荘厳な雰囲気です。永井家の殿様のご子孫が今回来られる情報もあったようですが、急遽来られずとのことでした。

玉串拝礼を行い、例祭が終わったあとの永井神社の中のようす(許可をいただき撮影)です。この正面の手前のかもいの上には、高槻城が描かれている大きな絵馬があります。(撮影忘れました。。)

右手には、昔の例祭の写真や、貴重な木馬も(永井直清の愛馬をもとにつくられたか 馬の上にある布には家紋のテッセンがあるようです)

野見神社の客室で、参列された永井神社会の方々にお話しをお聞きしました。また「殿さま」の甲冑の姿を撮影させていただきました。今回、私は永井家の家臣のご子孫や関係者ではなく、永井神社会の会員として参加させていただきましたが、このような参加も今後は歓迎のようです。
なお、当日は永井祭奉納武道大会があって、

高槻の居合道連盟の方々が

能舞台で日頃の成果を披露されていました。例祭の時間には、居合道の皆さまは永井神社の前に参列いただきました。これは永井直清が居合道の師を城に招いたことから例年合わせて奉納されているようです。

例祭のあとには、殿さまは能舞台にご訪問。。
今まで、永井神社の例祭は、4月24日でしたが、来年からは4月24日に近い日曜に開催し、高槻居合道の奉納武道大会の方も参列して開催してはどうかと考えておられるようです。
まとめと私見:永井直清を調べてわかったのは、23歳で大坂夏の陣に出陣、その後43歳まで旗本の仕事をしていたこと、その後長岡京(神足)で大名になり、京都、大阪の仕事も任され、現代で言う定年前に高槻に入城。しかし81歳(1671年)でなくなるまで22年間、高槻の城主で地域のため仕事をします。人生大きく3つ(旗本時代、長岡京時代、高槻藩主)に、それぞれの環境でできることをされていたのではないでしょうか。現代のある意味サラリーマン的な感じですが、60歳以降の生き方(高槻のため)の参考になる感じがします。。今回永井神社会の会員に入らせていただき、貴重な例祭に参加させていただきありがとうございました。(また今回代表の殿さま、いろいろなお話をいただきありがとうございました)かなり書いている内容を省略しているところもあるため、下記の参考資料などをご参照をお願いいたします。また今後も情報追記していきたいと思います。
参考文献:神になった殿様 ほか


なお、永井神社会に参加されてみたい方は、野見神社で申し込めるようです。お札(おふだ)もいただけましたので、自宅に小さな神棚を作りました。。
参考 初代藩主 永井直清に関する投稿
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