高槻城に石垣や天守閣があったらどんな感じなのでしょうか?その謎に迫るため、前回の宇和島城に続き、四国の高知城に行ってみました!高速道路がつながっているとはいえ、かなり遠いです。。
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高知城は標高44mの平山城に造られています。したがって、平城だった高槻城と作り方、またお城の規模が違うので単純に比較できないのですが、参考になるところなどを調べてみます。山内家が入城して1601年から1611年までかかりお城が建設されています。最後の工事だった三の丸ができたころ以降に、高槻城も本格的に造られています。建設にあたっては、近江穴太衆を使って石積みをしたようです。天守閣付近の石は、近くにあったお城から持ってきているよう。天守閣付近の石垣は野面積みのようです。現在の高知城築城時、周辺は湿地だったようなので、三の丸付近は高槻城と同様な地盤固めも必要だったのかもしれません。高槻城はその約10年後、小豆島から石を運んでますので、高知城では、次の大手門付近の石積みに似てるかもしれません。
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なお、高知城は上の写真の黒い壁の大手門より上は、一度大火(1727年)にあって焼失しています。今の天守閣付近の建物は、それ以降に建設されているようです。
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昭和9年に天守閣含む15棟が国宝になりましたが、現在の制度上、昭和25年に重要文化財となっています。天守閣の他、御殿もあります(写真はすいません)ところで、右側のリョーマの休日とは何?

ということで、リョーマの休日?を満喫するため、少し市内を回ってみます。
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おなじみの桂浜にやってきました。海が雄大です。
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空にはなんと360度の虹が。。(前回ツイッターだけ出しました)
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高知駅には、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎の銅像があります。高知城の城主、山内容堂も幕末には活躍しましたが、殿さまよりも、この御三名が高知では相当有名なんですね。
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市の中心に戻りました。ひろめ市場にきました。幕末4代の藩主の家老を務めた、ひろめしげあき、という人物の家だったようです。それでひろめ市場なんですね。平成10年にできたようです。行かれた方もあるのではないでしょうか。
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この中にある、有名な明神丸で本場のかつおのたたきをいただきました。さすがに本場です。高槻城の考察からかなり脱線しました。。。



なお、時代背景を勉強するために、司馬遼太郎の竜馬がゆく(坂本龍馬ほか)、酔って候(山内容堂)という本にもありますが、この当時の土佐藩と藩主の立場、なぜ駅前に上流武士でない3人の銅像があるのかを考察するのも面白いと思いました。



◆以下は前回2月3日に投稿した宇和島編です。
今年築城404年になる高槻城ですが、石垣や天守閣があったらどんな感じなのか? 最近は、二の丸御殿や石垣石の投稿をしましたが、いままで、明石城や大阪城の櫓・浜松城などを訪れて、石垣石や天守閣の考察をしてきました。今回、さらにその謎に迫るため、現存12天守閣のうちのひとつ、愛媛県宇和島市の宇和島城に行ってみました!(お正月です)
202201宇和島城 (1)
まず、愛媛県宇和島市ですが、四国愛媛県の西側、高槻からは高速道路ができています。高槻市の約4.5倍の面積、人口は約6.8万人で高槻のおよそ5分の1のようです。今のお城は第2代の伊達宗利が大幅に改修(1666年)されたときに造られたようです。石垣の土台がかなりしっかりとしています。3層の天守閣ですが、高槻城も3層の天守閣だったと考えられています。

歴史的には宇和島藩は1614年伊達秀宗(仙台藩の伊達政宗の子供)が10万石で入城して藩として成立します。幕末の藩主である伊達宗城(むねなり)は有名な方ですよね。明治4年まで中央政府の要職をされていました。
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城山と言われる、本丸と二の丸のある部分は戦前まで伊達家が保護管理されていたようで、昭和9年天守閣が重要文化財に、昭和12年に城山が国の史跡に、24年には伊達家から市に丘陵が譲渡されて現在に至るようですね。
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市の中心にあります山城に造られているため本丸付近からはこのような眺望。
202201宇和島城 (3)
この石垣は古そうです。野面積と言われるものでしょうか。

天守閣の図と各部の呼び名が宇和島城のページにありました。
宇和島城
(宇和島市のサイトより引用)
①軒唐破風(はふ)
②武者窓
③懸魚(げぎょ)
④千鳥破風
⑤長押(なげし)
⑥犬走(いぬばしり)
⑦天守台
高槻城も絵図を見ると、天守閣は本丸の中の少し内側に天守台があってそこに造られていたようなのでこのような構造だったのではないでしょうか?

なお、高槻城の天守閣の絵図をいくつか紹介します。(以下天下泰平と高槻城、高槻市史第4巻付図、しろあと歴史館より情報を引用)
高槻城3
図の上にあるのが天守閣、3層ですがちょうど宇和島城の写真の向きと同じでしょうか。
高槻城4
これも高槻城の残っている絵図です。
高槻城1
城郭地図で大きさが描かれているものがあります。左上の建物ですが、3階に千鳥破風という、三角の屋根が描かれてますね。6間?と書かれているのは東西の長さでしょうか。そうすると12mくらい。上の宇和島城の図も寸法が描かれていますが、一辺がそのくらいの大きさのようです。ということで宇和島城の天守閣を見て、高槻城もこんなだったんだろうな、と想像しました。また、今後も考察を付け加えていきたいと思います。

参考:



以下は前回の明石城を見学しての考察の投稿です。
石垣編に続いて【天守閣】編です。

高槻城の天守閣については詳細わかっていないみたいですが、3層だったこと、昭和51年旧島上高校体育館の建て替え工事に発見された石垣石とともに多くの瓦が、お堀側に捨てられていたという情報しかありません。材木などはどこかに転用されたのか??そういった情報もありません。(補足情報あれば今後更新します)

明石城は天守閣がなかったのですが、櫓が4つ作られ、現在2つが残っています、明治初年には3つあったけれど櫓の1つは小学校建設に転用されたみたい、

大手門から入ってすぐ左右に2つの3層の櫓が見えてきます。
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向かって右側が巽(たつみ)櫓、
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左側が天守閣の代用だった坤(ひつじさる)櫓です。この2つの櫓は石垣の上少し高台にあり、櫓へは東まわりに登っていきます。
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夏場は櫓の公開されていないようですが、築城400年前の夏休みということで、土日だけ坤櫓の公開がされていました!ラッキー!
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櫓のある二の丸まで登ると何やら外国人歌手??が巽櫓をバックにPV撮影?されています、、(笑)

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東側(向かって右)の巽(たつみ)櫓を近くで見るとこんな感じ
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西側(向かって左側)の坤(ひつじさる)櫓です。1階が公開されていました。おそらく高槻城の天守があったらこんなだろうと推測します、
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多くの筋交いがあります。筋交いの入ってる多くの柱は、おそらく1尺くらいあります
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2階へは急な階段が、、
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50cmくらいの丸太の梁が鉄枠で固定されています
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1階の窓?から覗くと、天然のクーラーみたいな風が、、
外には球場があって前日は、兵庫県大会の決勝があったみたい、、

下はおもむろに超重要な瓦などがいっぱい、、
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この櫓は実は築城時に別の城から移築されたみたいなのでおそらく400年以上建っています、
説明の担当の方も高槻城との関係をよくご存じでした(当然か)
勝手に選定して勝手に行って勝手に感慨にふけって勝手に登録しましたまた今後補足情報あれば追記していきます
来週末土日もおそらく公開されていると思います。(要確認)