高槻城の二の丸御殿はいったいどのような建物だったのでしょうか。現在建設中の芸術文化劇場は、この二の丸御殿の中央に建設されており、二の丸周辺は今後の世代の方のために残されています。
御殿 (5)
(グーグルマップから引用)これは芸術文化劇場の建設工事の前の二の丸のほぼ全体の写真です。
今回は高槻城の二の丸御殿のおよその外郭と、建物の配置までを推測してみます。最終的には他城の御殿の間取りを参考にして、間取りを考えて、最終的には建物の外観まで想像したいと思います。
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参考とするのは天下泰平と高槻城、高槻市史第4巻付図などです。
まず集めた参考情報
・昔の高槻城の絵図
・昔の城郭地図
・高槻市二の丸御殿発掘調査報告

・他城の御殿間取り図(亀岡城、松坂城、和歌山城、伊賀上野城など)

・亀岡城の移築新御殿、亀岡城移築御殿実際見ての印象、松阪城の徳川御殿の古写真


では、二の丸御殿の建物はどのようなものだったのでしょうか。
20210801ninomaru (3)
(しろあと歴史館より引用)高槻城の絵図には二の丸御殿の絵が2つあります。これがひとつ。右上です。茶色い屋根に建物が1つ描かれています。玄関は東向きで曲線のある「唐破風」(からはふ)の屋根です。
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(しろあと歴史館より引用)永井神社にある絵図です。少しわかりにくいですが、二の丸御殿は3棟くらいが表現されています。
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次に城跡歴史館にある城郭の二の丸御殿の模型です。手前が北です。しかしながら、これは当時の建物のようすを正しく表してはいないようです。ということで、現在ある絵図の情報と、他城の御殿の間取り図などの情報をもとにいろいろな条件をつけて、独自に二の丸御殿を想像してみたいと思います。
御殿 (1)
次に、高槻城の絵図には、二の丸御殿について、建物の「輪郭」が記されているものが2つあります。これは明治5年の絵図のようです。明治7年に高槻城は破却されるのですが、明治5年までは建物はあったということですね。近年の二の丸御殿のお堀の発掘調査などでは御殿の建物の破片などはお堀にはなかったようです。また明治42年に陸軍の工兵隊が来てから、この敷地は整地されたため建物の礎石などもありません。(天下泰平と高槻城より引用)
御殿 (2)
それ以前の絵図にある御殿の周辺には周囲の塀?小屋?なども書かれたものがあります。
(天下泰平と高槻城より引用)
御殿 (4)
では、御殿の建物はいくつあったのでしょうか?どのような建物だったのかを絵で描いたものもわずかにあります。右側は桝形門という門です。その左側に描かれているのは東西に2棟、南北方向に3棟が描かれています。(高槻市史第4巻付図より引用)
御殿 (3)
さらに、城内の寸法が描かれている図があります。これによると、二の丸(御殿)は東西65間(58.5m)、南北50間(45m)とあり、二の丸 300間(270m)?周囲か?という表示もあります。
(高槻市史第4巻付図より引用)
御殿写し1

ここまでの情報によりいったん、二の丸御殿の外郭をエクセルで図にしてみました。ピンクが建物の外郭、うす緑が門や小屋などです。二の丸(御殿)は東西65間(58.5m)、南北50間(45m)のサイズを考えるためにちょうどピンクの直線を描いています。
御殿写し2
では5つの建物がこの中にあったとしたらどのようになるのか?まずだいたいで置いてみました。右側(東側)には玄関があって、おそらく南側には一番大きな建物があり、殿様の居室などがあったのではないでしょうか? ひょっとすると西側(左側)かもしれませんが、左側は上記の絵図では南北の長さが違うため、大きな建物があったのかがよくわかりません。上側(北側)にはおそらく台所の建物があって、世話役(他城では女中部屋などと記載)の部屋があったのではないでしょうか?そして中央にも建物があってそれぞれの間に2つの中庭があったのではないかと勝手に推測します。

結局今日は建物の概略配置の検討までしかできませんでした。
一方、今後間取りを検討するために、他城の御殿の平面図を調べてみます。今まで投稿したこともある亀岡城の新御殿の間取りも参考にしてみます。この御殿も規模的に似ているようです。こちらは移築された門と、玄関・その右側にある2間の建物が亀岡市内に残っています。亀岡城は御殿が2つとさらに本丸の御殿もあったようですね。さらにそれらの間取り図が残っています。
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(亀岡市史の別冊から引用)新御殿の平面図です。中央に小さな2階もあったよう。


そのほか、旧紀州藩領の松坂城(三重県)の徳川御殿も参考にしたいと思います。
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こちらは間取り図もあります。ここは殿様が常に利用されていたのではないようですが、大きな建物が4つあり規模が似ています。(松阪城再発掘より引用)
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ここは明治10年に焼失してしまって、今は藤棚があるだけなのですが、当時の御殿の写真があります。雰囲気がわかります。(東京国立博物館の蒲生城古写真より引用:明治5年)(原版は東京国立博物館)正面は台所の建物。
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この奥は、殿様の住む御殿の建物、すぐ手前は世話役の建物。(東京国立博物館の蒲生城古写真より引用:明治5年)一番手前のご城番の建物は今も残っています。殿様の住む建物は、水無瀬神宮の向かって左にある建物も外観的に近いのではないかなと思っています。


そのほか、伊賀上野城の御殿の間取り図、和歌山城の御殿の間取り図もあります。いったん情報を並べただけになってしまいましたが、次回は他城の間取り図をもとに高槻城にあった二の丸御殿(5棟)の間取りを次回考えてみたいと思います。


◆以下は前回12月26日の投稿 です。
高槻城の二の丸御殿はどのような建物だったのか 御殿を推測してみる その2
高槻城ネタです。お殿様が住んでいたと思われる二の丸御殿について本当に情報が少ないのですが、周辺の情報をもとにどのような建物だったのか、お正月に向けて何回かシリーズで投稿したいと思います。まずその1は高槻城は明治維新のあとにどのようなことが起こったのか、他の近くのお城も同じだったのか、ということを投稿します。
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明治5年に廃城令が出たんですが、高槻城は明治5年に当時の新政府が存続や廃止するかの調査されたあと、明治7年に建物がなくなったとされています。石垣はJRの鉄道工事などに明治7年から鉄道完成の明治9年の間に使われたようですので、石材が明治7年に搬出されるということは明治5年から7年の間に城内の建物はなくなっているようですがその間、その建物に払い下げがあったのかなど、いっさいの情報がないみたい。本行寺の門、下田部町に残っている高札場のある民家の蔵などが高槻城から移築された伝えられる遺構のようですが、お殿様の住んでいた御殿はどうなったのかわかりません。明治42年に陸軍工兵隊が来てから二の丸の整地がされて建物の基礎などもなくなってしまいました。1昨年二の丸御殿の発掘調査のときには二の丸南部に蔵の基礎や井戸(後年)のあとが出てきたようですが、二の丸の北側の不明門の発掘のお堀にも御殿の建物の残材はなかったようです。とても謎です。

◆高槻城のほかのお城はどのように廃城の過程をたどったのか 高槻城はその参考にならないでしょうか。
今回は近くのお城の歴史を調べました。

<高槻城>
明治5年 新政府調査(5年の調査図にはまだ天守閣、御殿の図がある)
 その図には御殿のところに元庁舎などと書かれているため明治5年にはすでに転用されたと思われる役所の役目は終わっていたようです。その時点では現在のしろあと歴史館の東側の建物が役所になっていたみたい。
明治7年 高槻城解体(推測)されて石垣が線路の敷設に転用
払い下げなどの記録一切なし

<亀岡城>
廃藩時5万石で高槻より少し大きかったですが、
明治6年一部の民間払い下げ
明治10年に天守閣が解体
明治11年さらに一部(残り?)の払い下げ
明治15年新御殿の玄関一部が市内に移築
   新御殿とは幕末に建て替えられた御殿のようです。(間取り図あり)
   その門は亀岡の2つとなりの駅の近くにある小学校の門になっています。
   亀岡の場合は他にも払い下げで移築されている遺構があるようですね。
明治30年代 鉄道建設のため石垣が転用 高槻と同じですね

<岸和田城>
江戸時代6万石
明治4年 
  8月藩主 東京に引っ越し(岡部家は戊辰戦争で新政府軍に)
  城内の櫓解体・堀の水抜き 当時すでに天守閣はなかったため解体は順次だったみたい
  すでに二の丸御殿は雨漏りがひどく靴で入らなければならなかった
  その後5年 岸和田県から堺県に 御殿の一部が解体 
明治6年 城内の御殿は段階を経て解体(間取り図あり)
  払い下げの記録なし しかしわかっているものとして
  月見亭(櫓)が阪南移築 (大正)その後平成9年に解体
  能楽堂の能舞台に移築 
現在は建物の復興がされているものの当時の建物はない
岸和田城もなぜ解体を急いだのか理由は謎のようです。

<明石城>
天守閣は当時なく廃城後、3つ残っていた櫓の1つが学校建設の資材となる 2つが現存。

<三重県の松坂城>
紀州藩の支城でしたが明治6年に城内の門などの払い下げ 米櫓、近くの寺に門が残る
二の丸御殿は残されたが明治11年に焼失(写真、間取り図あり)

ということで、亀岡城は廃城後も急を要していなかったため?お城の解体が明治10年だったみたいですが、払い下げが明治6年くらいだったとすると高槻城は、一部は移築されたものの、御殿や天守閣は、明治7年の鉄道建設が解体の契機になったのではないでしょうか(私見です) 。ほか地区では明治20年代に解体されたお城もあったようです。岸和田城は逆に解体が早かったみたいですね。岸和田市の城も高槻城と同じく昔の写真がないようです。亀岡城(10年解体)には写真があるので、この間数年で記録があったかなかったかが別れていますね。三重県の松坂城は明治5年で写真が10枚近くも残っています。これは地元出身の世古格太郎というひとが新政府の調査で写真を愛知県から京都付近まで撮ったのでたまたまか残っているみたいです。今後、ほかのお城の御殿の間取り図などを元に高槻城の二の丸御殿を推測してみたいと思います。

具体的には下記について投稿したいと思います。
◆二の丸御殿の建物はどのようなものだったのか。高槻城の絵図で2つ「輪郭」が記されているものがあります。さらに、どのような建物かを絵で描いたものもわずかにあります。それによると東西に2棟、南北に3棟があったようです。しかしその5つの建物を、別の絵図の「輪郭」に当てはめようとするとかなり無理があるようです。そこで、今後さらに日本に現存する4つの御殿の情報の他、亀岡城の御殿、岸和田城の御殿、和歌山城の御殿の間取り図、三重県のお城の御殿(松坂城、伊賀上野城)などの御殿の間取り図・古写真などを参考に推察してみたいと思います。。。。

参考 過去の投稿
▶高槻城築城400年 特設ページ
▶出丸町 旧高槻城の六口の富田口から入ったところにある謎の道標 
▶高槻城 城内に現在も残っている通路は? 出丸の北門付近 現在のようすは?

高槻城跡 市民会館工事に伴う二の丸御殿付近の発掘調査が2019年6月いっぱいで終わるみたい

▶高槻城跡 二の丸中央部の発掘調査の報告 高山右近時代の堀があったみたい 2019年
▶高槻城二の丸発掘調査報告を見てきた 高山右近の前の時代のお堀が発見されたみたい 前回報告
▶高槻城二の丸発掘調査 1500年代後半高山右近の前の時代の堀が発掘されたみたい 2日現地報告があるよう

▶高槻城築城400年 大河ドラマの舞台でもある浜松城と比較してみた
▶【築城400年】高槻城に天守閣があったらどんなの?明石城編

▶【築城400年】高槻城に石垣があったらどんなの?明石城編

▶旧日本陸軍 工兵第4大隊の歴史を少し調べてみた その2

▶旧日本陸軍 工兵第4大隊の歴史を少し調べてみた その1
▶旧陸軍 工兵第4大隊の正門をみたことある?

▶レンガトンネル第2弾の土台も高槻城の石垣石の痕跡が!?

▶築城400年 高槻城の外堀道とは? 予告編

▶築城400年 高槻藩の藩校はどこにあったの?

▶【市民会館工事】高槻城の発掘現場がふたたび予想の展開になってきた!?

▶【市民会館工事】 高槻城の発掘調査は予想と違う展開になってた、、

▶【市民会館工事】高槻城の発掘調査がもう1箇所ある?

▶【市民会館工事】 更地の南西部で発掘調査がなされている?

▶【高槻城二の丸南部】市民会館の工事が始まった!

▶高槻城 二の丸発掘調査跡はどうなってる?

▶高槻城不明門 開かずの門が開いた!

  ↑二の丸跡発掘調査です
▶高槻城 お堀の発掘調査報告がされるみたい 続報
▶高槻城のお堀跡?を発掘調査しているみたい

  ↑新聞より先に記載
▶高槻城の本物の石垣石を見てきた
▶現存する高槻城の隅櫓と下田部高札場を見てきた

▶高槻城築城400年 記念講演第1回を聴いてきた


<関連記事>
▶続日本100名城「芥川山城」に大手門があった!
▶西国街道】高槻城下京口への入口付近はどんな感じなの?
▶芥川氏が築いたとされる芥川城跡


▶【旧高槻城の外堀道】 ウオーキングしてみた!そのルートは?いったい何分かかるの?