2016年12月17日 淀川の境界線の不思議 明治時代の高槻の地図を見ていて、淀川の境界線で気になったことが。・樟葉の東河岸は高槻・鵜殿南の西河岸は枚方・枚方河川公園の東河岸は高槻・寝屋川太間公園の東河岸も高槻市の境界である川の中心部分が移動したことと、河川公園が拡張されたことが変化の原因かと思います。詳しい方いませんか?▶おまけ同じく明治時代の地図を見ると、高槻市と枚方市の間に中洲が存在します。この南側の川の中心が境界線になって、今に至っているように思われます。 「小ネタ」カテゴリの最新記事 タグ :#淀川 < 前の記事次の記事 > コメント コメント一覧 (2) 2. 安藤 2017年08月23日 10:00 訂正:枚方淀川公園の西端ぎりぎり、 ------------------------------------ 西端--->(訂正)東端ぎりぎり ついでに鵜殿付近は大きな中洲を挟んで2本流となって上牧では内ゲ池から東野田付近までが高槻側の右本流となっていました(古地図) またついでのついですが 芥川郡(高槻)の西国街道沿いには 約10箇所の宿場が存在し、とくに芥川橋付近の芥川城(三好本陣?)周辺に集っており、対する芥川の渡しの西側(右岸)には宿場は見当たらない。なぜ? 富田には宿場があった。 如是川から大田郡(t茨木)の間は、今城塚・大田茶臼山古墳の地域で民家・宿場は無い広場であったみたい。 安藤 1. 安藤 2017年08月22日 18:17 江戸時代初期 慶長10年(1605年)当時の古地図には 今の淀川の流域も相当にちがっています それが慶長大地震のせいなのかは不明ですが、大略、芥川合流点から上流に向かって、枚方淀川公園の西端ぎりぎり、からく急に曲って前島大塚を北上、鵜殿付近の中洲で二つにわかれて上牧で急北上。ついでに桧尾川は東天川から山手付近まで直北に流れていた。 概略ですが 安藤 コメントフォーム 名前 コメント 評価する リセット リセット 顔 星 投稿する 情報を記憶
コメント
コメント一覧 (2)
------------------------------------
西端--->(訂正)東端ぎりぎり
ついでに鵜殿付近は大きな中洲を挟んで2本流となって上牧では内ゲ池から東野田付近までが高槻側の右本流となっていました(古地図)
またついでのついですが
芥川郡(高槻)の西国街道沿いには 約10箇所の宿場が存在し、とくに芥川橋付近の芥川城(三好本陣?)周辺に集っており、対する芥川の渡しの西側(右岸)には宿場は見当たらない。なぜ? 富田には宿場があった。
如是川から大田郡(t茨木)の間は、今城塚・大田茶臼山古墳の地域で民家・宿場は無い広場であったみたい。 安藤