kangaeru



明治時代の高槻の地図を見ていて、
淀川の境界線で気になったことが。

樟葉の東河岸は高槻
鵜殿南の西河岸は枚方
枚方河川公園の東河岸は高槻
寝屋川太間公園の東河岸も高槻

市の境界である川の中心部分が移動したことと、
河川公園が拡張されたことが変化の原因かと思います。

詳しい方いませんか?


▶おまけ
同じく明治時代の地図を見ると、
高槻市と枚方市の間に中洲が存在します。
この南側の川の中心が境界線になって、
今に至っているように思われます。