カテゴリの付けづらい小ネタなんですが。
町名とかで変わった名前があると「おっ」ってなりませんか?
(変わってるかどうかは人それぞれだとは思いますが)
高槻市にもちょこちょこそういうのがあるので、
少し紹介していこうと思います。
高槻にずっと住んでていて気づかなかったんですが…
今日カーナビで「紅茸町(べにたけちょう)」というところを見つけました。
高槻第八中学校あたりの地域ですね。
食べたら危険なキノコっぽい感じですけど、
他とは異彩を放っているなと感じました。
食べ物っぽい名前は珍しいですよね。
次にバス停の名前です。
大体バス停ってその町の名前だったりがついていると思うんですけど、
下田部2丁目(来来亭高槻イーゴス店の横)に「二十(はたち)」というバス停があります。
これ全く町名と関係なさそうですよね。
昔の土地の名前がバス停の名前になっているんでしょうか。
数字だけの名前も少し珍しいですよね。
次は難読地名で割と有名です。
原地域の奥に行ったところにある「出灰」 です。
初見では中々読むの難しいと思います。
これで「いずりは」って読むんですね。
他にも、「東五百住(ひがしよすみ)」、「芝生(しぼ)」、「土室(はむろ)」とかも
結構難しいですよね。
次はちょっと話が変わるんですが、
明治以前の小字(※)が残っているパターンです。
田能や二料、中畑地域に「コブケ」、「アンタコ」、「ヲウゴウ」、「藤シロ」、「タコ子」
といったカタカナが入った地名がちょこちょこあります。
前から何故カタカナの地名があるんだと不思議に思っていたんですが、
明治以前の地名の漢字が不詳となっており、カタカナになっているんだそうです。
漢字に直してもまだまだ変わっていそうですが。
次は高槻市を流れる淀川水系の一級河川「芥川」です。
読み方は普通に「あくたがわ」なんですが、
「芥」の意味を調べてみると、、、 「ごみ、くず」と出てきます。
…これ何とも言えないですよね。。。
高槻市民お馴染みの川ですが、少し複雑です。
ちなみに、三重県鈴鹿市にも同じ名前の川があるそうです。
現在、気になっていたのはこれくらいですね。
もっと他にも変わった名前がついているところがあるかもしれませんね。
コメント
コメント一覧 (2)
「二十」は「不明」。←「20番目」の意味だとすれば、古代「条里制」の「二十ノ坪」ということか。
「出灰」は、この地から東に向かうと「京都市西京区大原野灰方」に出る。このことに由来すると考えてよいかも。
「五百住」は、継体天皇の子の安閑天皇のときに、天皇の「何処に良田ありや」との問いに河内国の汎河内味張(おうしこうちあじはり)が言を濁したものに対して、三島県主の飯粒(いいぼ)が「我が地に有り」と応じたことから、天皇は味張に命じて農繁期に500人の田堵(支配民)を飯粒に差し出すようにさせた。その田堵が住まいしたところと伝えます。
「芝生」は土留めにつかった柴の束のこと。
「土室」ははにわ工場公園に残る「穴窯」のこと。土の小部屋のように見えます。
カタカナの「小字」名は、村人が言っていた言葉を文字にしただけのもので、漢字表記はありません。
「芥川」は「伊勢物語」に出てくる在原業平の話にでてくる「芥河」のことで「謡曲(能)」や「文楽」などにも出てきます。「阿久刀神社」にもみられます。
「西面」は、茨木市五十鈴町に鎮座している「溝咋神社」の豪族「溝咋氏」から続く「溝咋源氏」の配下が
玉川の里を流れる「玉川(番田排水路)」の保全を担った武士団が、村の西に面する流れを守っているという意味です、(院政の頃の御所の北を警備した「北面の武士」のように。)西面村の氏神は、今、三島鴨神社境内にある「八幡宮」で、源氏にゆかりがあったことがわかります。
玉川橋団地の東側で三箇牧小学校の校区になると思います。
おおかたの人は「西面」と書いてなぜ「さいめ」と読むの?と不思議に思うのでしょうが、実は逆ってことはないでしょうか?
つまり、「サイメ」という名前が先にあって、ある時 お役人が公式の村名として帳面に載せる際、漢字で書く方が立派に見える?ので無理やり「西面」の字を当てた、なんてどうでしょう。
もちろん私のいい加減な思い付きに過ぎませんが、帳面に書く必要がなかった「コブケ」「アンタコ」などは漢字を当てることもなかった ということで(^^)